2016年3月24日木曜日

COPPA100閉店。







 いつも通り料理をお任せで頼んで、十字のテーブルで機嫌良くワインを空かしていた先週末。自家製の野菜やシャルキュトリー、シメは名物のパッケリで腹をさすり、「ごちそうさま」と会計に歩み寄ると、何だか妙に改まったミッキーの顔。

「フジモン、店⋯いったん閉じることにしてんやんか」

 ウソやろミッキー、んなアホな。冷静を装うけれども的確な言葉が出ない。料理の手を止めて南野さんがやってくる。

「せやねん、新しいプロジェクトに関わることになって。10年やったしひとつの区切りやわ」


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 大学を出て、この編集の仕事に就いた時を同じくして開店。10年以上の長きにわたって、公私ともにお世話になってきた東心斎橋[COPPA100]。ミーツの2005年5月号『ほんとは濃い味、好きなんです。』で、パッケリのカルボナーラを取材させてもらって以来、コンパに送別会、お客のアテンドからひとり飲みまで、いつもパブリックでカッコつけさせてくれる場所として通ってきた店だ。

 近年では『KOCHI natural MARKET』にも出店いただき、結婚パーティーのケータリングもお願いする仲で、オーナーシェフの南野さんとカウンターで街や店の話を熱っぽく語り合い酔い痴れた日々は遠いものではない。

 冒頭に書いた先週の時点では6月の予定が、「3月で閉める」と昨日メールがあり、矢も盾もたまらず帰路のホームから踵を返したのだった。


 同じ思いの知った顔がカウンターに並ぶ。重苦しい空気はなく、いつもと変わらないカウンターの風景がそこにあった。彼らによれば、次の展開は「奈良の住宅リノベーションの会社と、コッパの食の提案を加えたチームとして新事業を立ち上げる」とのことだった。メールじゃなくて電話をおくれよ、急すぎるよ、と言ってやろうかとも思っていたのだけれど、10年前から比べて皺が刻まれた顔と、思慮を重ねたであろう語り口を見ていると、SNSやホームページもやらず、最先端のグルメ文脈にも乗らずに「街の店」として営々と繰り返してきた日々が思われて、「このさっぱり去る感じが彼ららしい」と気がすっかり晴れていた。

 深夜2時。別れを惜しむ人がすっかり去って、僕はカメラを取りだしてお店の写真を撮らせてもらった。ファインダーをのぞくたび、一緒に飲んだ友人・知人の幻影が映り込んでくる、働いていた多彩なスタッフが動き回る。最後に撮ったふたりは、やっぱり見慣れた固めの笑顔。でもそれは、オーナーシェフの南野さんと相棒のミッキー、ミナミ版「相棒」の物語の、あまりにも美しいひとつの幕引きなのだった。
 

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 「10回通ってわかることを1回で体験させる店やった。師匠の店を目指して頑張ってきた10年やったなあ」そう南野さんが述懐する時枝和生さんの店[ルーリオ]も先頃店を閉められたという。そういえば、[グランカフェ]や[オンジェム]に、名古着店[RAIN]や[お好み吉田]が入っていた中正ビルもなくなってしまった。そして5月には、これも長い付き合いの鰻谷[シネマティックサルーン]が新たなステップへ進む。

 街が変化をやめないことは仕事柄よくわかっているつもりだけど、学生時分から遊んできた場所が次々と閉店し、提案力のある店と人がミナミや大阪を離れていくこのところの様子を見るにつけて、この半年感じている“転換点”との思いが強くなった。
 
 いつまでも思い出に浸って酒を飲む歳でもないし、これは彼らとの次のクールの始まりと理解しているので、一夜明けた今日はそれほどの感傷はない。でも、長く見続けてきた街が刻々と変わっていくのを正視すると感傷が湧いてくる。

 「思い出が多すぎるねんなぁ、俺は」

 先日、急逝した馴染みに献杯をしてひと息つき、ショートホープに火を付けながらこぼしたお兄ちゃんの言葉が甦る。


 いつもの送り出し、誰も「さよなら」は言わなかった。街と店、お客への愛情に満ちた店[COPPA100]。南野さんとミッキー、本当にお疲れ様でした。そしてこれからもよろしく。








all Text&Photo K.Fujimoto





2016年3月16日水曜日

祭りのあと。






 まずは先週日曜日、『THE ZEN KAI Vol.6』にお越しいただいた皆様に感謝を。
 そして主宰の森田大剛さんはじめ携わるスタッフと出演者、場所を提供いただいた清水寺さんに心より敬意を表します。

 空の碧が雲の白に縁取られ、くっきりそれは注染の布のよう。澄み切った春の日の下、恒例の花園禅塾の読経から桂しん吉さんの一席までノンストップの2時間。特別ゲストの満島ひかりさんの朗読のあと、祇園甲部芸妓・真生さんの聞き手を務めさせていただきました。


 江戸時代から“当たり前に”高いレベルの「おもてなし」を続けてきた京都の花街。日々のお稽古や挨拶回り、言葉遣いに装束。そして“一見お断り”をはじめとした、質の高い「おもてなし」のために培われてきたあらゆるマナーを通して、京都の花街が伝えてきた日本本来の「おもてなし」の心を探ろうという大ネタでした。
 
 他者といかに関係性を築いていくか。それは馴れ合いでは決してなく、時に厳しさを伴う調和の心。遊びも仕事もアホするときも、なんだって真剣な方がオモロいもんです。
 オリンピック決定以来濫用されている言葉について、何か考える補助線にはなったでしょうか。


 しかしながら真生さん。その美貌や語り口、気遣いや溢れ出る品位は、何しろ祇園甲部のトップランナーのひとりですから言うに及ばず、打ち合わせ時から内容の是非を率直に伝える姿、立ち居振る舞いからもマナーや伝統の世界にあっても自由に羽ばたかれているのがよく見てとれました。そういう方とのセッションは本当に面白いものです。

 革パンで30分の正座は想定外でしたが(笑)、打ち上げでのビールはこたえられないものでしたよ。次回は秋開催のようですのでそちらもどうぞお楽しみに。


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 「なんで緊張しないの」
 最近聞き手やパネラーを終えた僕によくいただくお声がけです。

 『リサーチや打ち合わせでの結果を飲み下して消化までする「準備」と、「これで失敗したらしゃあない」つまり「割り切り」の産物』そう答えたりしているのですが、思い返せば何度か手に汗握る経験があります。

 例えば先日の四国剣山縦走。スタート前の送迎バスにて、道悪や揺れのせいじゃなく我がのてのひらが震えていることに気付いた僕は、そびえ立つ深山幽谷が迫るにつけて、人任せの準備不足もあり「もしや身に余る経験なのではないか」と直感。実際2日目途中で敗退下山の苦い経験となったわけですが、大失恋した淀川河川敷、雪の京大合格発表だって、そういえばいつだって手が震えていた。「どうしようもない」圧倒的に厳然とした“事実”は実際にやってきます。

 でも「身に余る」と遠慮するから緊張が湧いてくる。横着せずに正面から挑めば、失敗したとてそれは「いい失敗」のはずです。







all Text&Photo K.Fujimoto



2015年9月8日火曜日

展示会『銀河』のこと。








 「そろそろ素材から作ってみたい」


 それまで手がけてきたアンティークや既製のパーツを組み合わせるアクセサリー(そちらも少数展示予定です)も、「カワイイ」というより彼女らしいシックで品のある仕上がりで、オリジナリティは獲得していたと思うのですが、僕も長らくファッション担当としていろいろ見てきた手前、やっぱり生地から作っているブランドが好きだし、なによりそこから作る気概に共鳴するタチゆえに、それを聞いたとき「いいやん」「おうやれやれ」と物心両面で応援をすることにしました。


 加工が容易で、イメージを具現化するのにちょうどよい素材だったのでしょう、そのとき彼女は“銀粘土”というものに目をつけていました。長らく絵を描くことにも親しんできたゆえに、まず紙にデザインを書き起こし、そこに粘土を盛りつけてかたちを作っていく。「動物を立体にするには骨格を知らねばならない」ということで、時に図鑑を紐解くこともあったそうです。
 
 磨き、削り、さまざまな工程を経てできた、インパラが躍動するプレートを見て、僕の口から「これは⋯」が出た。いい意味でファンタジック、でもシックで品よく仕上がったそれは、確かにオリジナルで、これまでの経験や技術の結晶そのものだったのです(大げさですけど)。


 そして、やがて彼女は十二星座の制作に着手します。左耳にはその星座を表象するモチーフを。右には星のかたち、一番星に煌めくジルコニアを配して。縁あって手ほどきをしてくれるようになった<Studio SOIL>の工房で、約1年半かけて、十二星座が完成しました。


 思えば古来より、我々は方角や季節を天文から知り、動物や身近なものに見立て、さらにはロマンティックな物語を与えてきたように、星座に絶えざる信愛を示してきました。

 そして星座は誰もに必ずひとつあります。

 夜空を見上げることもなかなか叶わないこの頃ですが、大切なひとへのプレゼントに、自分へのごほうびに、ぜひ一度ご覧いただければと思っております。

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d.p. 展覧会 『銀河』
2015.9.11(Fri.)〜13(Sun.)
12:00〜19:00(作家は連日在廊予定)
@Mole Gallery
大阪市中央区伏見町3-3-3 芝川ビルB1

Opening Party 
9月11日(金)18:00〜22:00 @Mole&Hosoi Coffees

初日の夜に、お隣[Mole&Hosoi Coffees]でささやかなパーティーを開催いたします。心ばかりのおもてなしをご用意してお待ちしております。

HP:douxpavane.web.fc2.com






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 初日のパーティーでは、[Mole&Hosoi Coffees]さんに全面協力を得て、スペシャルバーテンダーとして元[バー ハートブレイクホテル]の松田圭則さんの協力を仰ぎ、星にまつわるお酒やフードを用意しております。東心斎橋のイタリア食堂[COPPA100]と、パティシエールの芦田真理子さんによる十二星座マカロンも! 


 ささやかな展示会ではありますが、いい時間を過ごしていただけるよう頑張ってみようと思います。我々夫婦も連日揃って在廊しておりますので、近くにお立ち寄りの際はぜひ、顔を見にいらしてください。








Photo by Yuko Kadokawa
Hair&Make-up by Eri Kaneda
Model by Chigusa Kambayashi(LVDB BOOKS)
Text by Kazutaka Fujimoto




2014年2月19日水曜日

死してなお。






 「タカシくんな、僕持ってる連載ページで『人生を狂わせた店。』っていうのがあんねんけど、そんなとこある?」


 取材時に飛び出すいい話を聞いて幸せな気持ちになる。
 濃い話が出なければ原稿量に困るし、ネタのセレクトには毎度苦労はあるものの、編集冥利に尽きる読後爽やかな企画で、持つページの中でも気に入っているもののひとつ。


 「味里やな〜玉造の」


 あっ。味里。



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 電話先のその人は吉田田タカシ君。
 
 フロントマンを務めるバンドDOBERMANは数限りなく見ているものの、ステージと客席のあわいに橋が掛かったのが2年前。義兄弟のカメラマン、竹田さんが主宰する高知の魅力をコーチしあう『520会』が、彼の主宰する[アトリエe.f.t.]で開催されてからだ。
 
 それからアトリエに遊びに行くようになり、街場で飲むこともしばしば、昨年末には僕の結婚パーティーに出演してもらう、文字通り家族ぐるみの付き合いになったが、人見知りな自分との縁を取り持ってくれたのがこの味里なんである。



 味里がはじめてミーツに載ったのは10年前のMeets199号の大阪特集巻頭だと記憶している。
 いかにも新鮮なマグロのにぎり4カン盛りがカウンターに置かれた、ぬくいお店の空気が伝わってくる1Pの写真。当時駆け出しの僕は、取材したM先輩の仕事に「いつかこんな写真撮らなあかん」と舌を巻いたものだが、次の掲載は5年空いて247号『ミーツの100軒』のひとつとして。
 
 K編集長が編集部員を引き連れて会社を辞めた後、毎日徹夜の勢いで、ふたり背中合わせで仕事をしていたM先輩は、この号を最後にMeetsから異動していったのだが、味里に行った翌日は必ず背中越しにこう言ったものだった。


「昨日店でドーベルマンのボーカルの子と一緒になったんやけど、藤本くん、絶対会わなあかんひとっちゃんね」


 スカ好きの僕としてはドーベルマンは街のイベントの常連で、まさに狂犬のパフォーマンスを見せるヴォーカルの彼は遠い存在でしかないし、人となりなどなおさら知るよしもなし、M先輩から何が面白いかの説明もないので、「ふーん」ってな調子で聞き流していた。それから僕は味里に行く機会もなく過ごしていたのだが、2年前、今度は竹田さんである。


「藤本っさんに紹介したい人がいるんですわ。ずっと撮影させてもらってたんですけど」


 そして、『520会』の打ち合わせということで会場となる[アトリエe.f.t.]を訪れた僕の前にいたのは、かくして吉田田タカシ君その人なのであった。


「なんか聞いとったでオレも」


 絵を志し、芸大を目指す学生たちの熱気が充満する玉造のビル4階を抜けだし、連れだった屋上。M先輩の話を伝えた僕にタカシ君はそう応えた。



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 12年前、25歳で玉造に風呂なしエレベーターなしのビル5階にアトリエを構えたタカシ君、”すし、うどん”と大書された長堀通りにぽつんと揺れるちょうちんの魔力にあらがえず、玉造温泉への道すがら週5で通っていたこと。
 仕事終わりの晩酌どころとして訪れていた、M先輩とそこでたくさんの話をしたこと。

 今回、タカシ君、竹田さんと味里に訪れて取材させてもらい聞いたたくさんの話は3月1日発売号の誌面に譲るけれど、3年前に突然の事故でいなくなってしまった彼女の新たな断片を、タカシ君の最高の話とともに僕はそっと心にしまって原稿に向かうことになった。


 そして取材から1週間後。

 日付けが変わる頃、僕は住んでいる松屋町を通り過ぎて上町台地を上り下り。
 創業27年、わずか9席しかないその深夜食堂には、かの中島らもさんや仰木監督、名レスラー・ミスターヒトさんらが夜な夜な相好を崩していたという話を反芻しながら。
 味里に書き上がった原稿を持っていくついでに湯豆腐、そしてすしとシャレこんだろ、という算段なのである。
 
 順調に熱燗をあけて2時間、話に混ぜてくれた常連さんのお勘定が済んでひとりになった時、「ウチに来る有名人、みんなはよ死んでしまうんやなぁ。タカシ君にはそのひとらの分まで生きてもらわんとあかんな」マスターの山口さんはそう微笑んで、壁に大切に貼ってあるM先輩の記事をちらり見遣ったのだった。


 それを見て、最後の鉄火巻に添えられていたガリで残りの杯をひといきにあかした僕は、そこで気持ちよく酔っていることに気付いた。「おおきに!」マスターの声におされてテールランプが糸ひく長堀通に出る。
 いろんな仲間に助けてもらった結婚パーティーのことを久しぶりに思い出しながら帰路につく。


「先輩が紡いでくれた縁の糸、操られるのもまた人生」


 ふらついても迷っても、この長い坂をひたすら漕ぎ続ける。
 M先輩に感謝しながら、その思いを新たにした夜の話。


all text&photo by K.Fujimoto





2013年6月6日木曜日

なんかいろいろ、塞翁が馬。







 清河丸と銘打った浚渫船が描いた対岸の波紋の連なりを、誰よりも常連客のヘロンが見つめています。奔る酸味はバリの浅煎り。最近の止まり木・ブルックリンロースティングカンパニーの静かな朝のテラスで書見に耽っていると、梅雨の地団駄が聞こえてくるよう。
 中之島に吹き渡る東風が入口のグリーンショップの花菖蒲を揺らす。こちとらポケT一丁、身震いして本日のドリップをもう一度口に運んだら、昨夜親父が話した“過去”に“コク”とルビを打ちたくなりました。

 久しぶりのブログ更新は、実兄のエントリー(『人間山脈と呼ばれた男』http://fujimo-jboys3.blogspot.jp/2010/05/blog-post.html)に続く身内の切り売りであります。



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 2年前の人間山脈まさかの結婚にうっかりテンションがあがっちゃった藤本家が、雨漏りヤモリその他老朽化がたんもり進んでいたこともあり、1Fに親夫婦と祖母、2Fに兄夫婦という二世帯住宅をいきおい建立しちゃって、なおかつ僕の居場所がなくなっちゃったのは先般のエントリ−の通り。
 インテリアコーディネイターだった兄嫁のセンス光る、ヌケ感最高な2Fに比して、部屋を小間割りにした1Fは、駄犬ルナが無尽に暴れ回るほかはそれぞれ割り当てられた部屋に引きこもり、まったくもってお通夜の方が賑やかやでこれ、“アルカトラズ”などと申せば母親がまたヒステリーを起こすでしょうか。

 昨日はやんごとなき用があり、そんな“熟年引きこもり”を果たした親父と北新地で8合ほどのわんこ杯を交わしたのですが、2年の反動があったのでしょうか、立て板に水で親父の来歴・身上を聞く機会に恵まれたのでした。



 親父は貿易に携わる家の次男として生まれ、幼少期に父親(僕にとっての祖父)を亡くしています。女手ひとつで3人を育てるため、仕事の関係もあり佐賀の有田へ一家で移住。新聞配達などもこなし学費を稼いだといいます。昼はバスケットボール、夜は佐世保の軍人バー、いわゆるAサインバーで夜ごとバーテンに勤しんで、ベトナム帰りの海兵隊たちによる、血で血を洗う乱闘では決まって店の大黒柱の影で乱れ飛ぶ酒瓶を避けていたそう。
 この頃から、今に連なる飛行機&アメリカ好きは見え隠れするのですが、こんなことしてちゃそらそうだよね、うっかり二浪カマして京都の大学へ進学。テレビからは燃え上がる安田講堂、まさに安保闘争ココに極まれり時節、バリケード封鎖された大学で、親父はやっぱり「ノリで」ぶき:げばぼう/ぼうぐ:へるめっとを装備してしまいます。授業はあったりなかったり、テストは一律レポートという入学詐欺同然の有様に、学問をまったく放擲、夜はあの伝説のナイトクラブ「ベラミ」の系列で黒服も務めたとか。

 自称・賀来千香子と当時から吹いていた母親とも在学中に交際スタート、安保闘争も収束に向かい、装備もそっと外した親父は、達観したかの中退届けを総務部に提出するという挙に出る。

 それは「かねてからの宿願“パイロット”への道が開けていたから」と。



 千人にひとり、さらに訓練で絞られるパイロットの狭き門を、ぜんたいどうやって親父は突破したのでしょうか。藤本家七不思議のひとつですが、日本航空の訓練生として仙台へ赴き、カリフォルニアはナパでの訓練を経て親父はなんと夢のパイロットになってしまったのです。
 「当時は帽子から溢れるほどあったんや」と広大なおでこをひと撫で、懐から出してきたヨコワケ凛々しきグッドラックな写真が冒頭の画像(写真左が親父)。お茶の水博士な祖父、ちょっと散らかっちゃった親父、禿頭のサラブレッドとして僕はこの頃に生まれた。
 その後国際線パイロットを32歳まで勤め上げ、婿養子ということで、母方の祖父の仕事を継ぐべく大好きだった飛行機を降り、千葉から大阪に入るのですが、その後の日本航空の行く末を鑑みると、そして病気ひとつなく還暦を越えてなお一線で真面目に働く姿を見ると、親父の「なるようにしかならん」「なんかいろいろ塞翁が馬」がリアリティを持って迫ってくるのです。

 聞くほどに、自分の夢と運命を見極めて走ってきた63年。寡黙な親父とツッパリな息子の時計が、この瞬間、再び進み出したような気がしたのです。


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 したたかに酔った二軒目のバー、空いたグレンリベットのグラスの氷が澄んだ音を響かせています。それにしても準備のよいことで、なぜ昔の写真を後生大事に持ち歩いているのか、ふと気になって聞いてみました。



「いや、これは⋯ラウンジのオネーちゃんに昔の雄姿を⋯エッヘッヘッヘ」



 使い慣れた淀屋橋駅へ、新地本通りを消えていく親父の背中が、遠ざかっていくのにとても近く、大きく、僕には見えていたのでした。



all text by K.Fujimoto



2013年1月26日土曜日

タレの蟻。(後編)


 





(前編からの続き)

 坂の上にある購買でSが仕入れてきた、一番搾りとカツ丼台抜きを間に座らせる。板チョコみたいな色をした肉片をしがみつつ唇を缶に添える。

「大学院行くことも考えたけどな、工学部でも半分以上は4年で就職するんや。ゼミの先輩の紹介、みたいなんで色々回ってくんねんけど…グッ」

 悪くなったらしい持病の蓄膿を吐き出しながら、Sは俯いた。経済学部の同学年一番の美女と言われたKさんが、「ルシェルブルー」と書いた水色の紙バックを脇に置いて、対面の椅子に座った。細すぎる足の隙間からは、下着が今にも見えそうだった。

「結局いろいろ落ちてやな、フジモン、液晶テレビで調子良さそうなSにだけ引っ掛かったんや。まぁ…先輩の話聞いてたら、始めはひたすら工場で組み立てのライン入るらしいんやけど」

 ひと缶目を飲み干しながら、もう一方の手で二本目の開栓に取りかかる。肉もむなしくなりにけり、僕は外しておいた衣と卵をつまみ上げて口に運びながら暗澹たる思いの中にいた。
 院に行くだけの研究対象を見つけられなかった理系学生は、一緒くたになって就職活動という場に雪崩れ込む。またそれは、実学に乏しい文系学生にとって強力なライバルでもある。

「なんやっけ…ゼミの先輩が声かけてくる制度…リクルーター制度やったっけ? 経済やったら多いんちゃうん」


 リクルーター制度。

 大手に就職した卒業生がホテルの一室にゼミの後輩を呼び出して、マンツーマンの簡易面接を行い、優秀と見られた学生をキープして就活をストップさせるという青田買いの仕組み。
 経済学部ならば、大手都市銀行や保険会社が相手だが、彼らにとって学閥を形成するための礎、社内における自分の持ち駒の確保である。

「あぁ…何社かの先輩に声かけられて行ったけどな…はっきり言ってクソやで」

 虫酸ごと吐き捨てた僕をKさんが見て見ぬふりをしているのがわかる。残されたネギをタレに絡めながら空けた二本目を口で迎えにいく。

「席立って帰ったったよ。例外なくね」

 ゲップ一閃、僕は続けた。個人的に会うものだから、学生はおもねりごますり、先輩側は使いやすい手駒にするために圧迫を十分に掛けておく。「あの人に褒めてもらってん~もうじき内定もらえるかも」と自慢しだす走狗の一丁上がりである。僕はといえば、

「その髪型、社会人舐めてんの?」
「ふーん、音楽好きなんだ、なに、楽器うまいの?」

ってな調子で向かってくる同じ歳(僕は一浪)の虎の威を借る狐たちと、それにへつらう同窓に辟易を超えて、悉く席を立ち一般の就職ルートに向かったのだった。
 この外道な仕組みを思い出すだけで、傍らのぼんやり歩いている学生を蹴り上げたくなる。

「おう、やっぱりそんなんか。それで何社ぐらい受けたんや」

 Kさんに気付いたSが、身を低くして股間を狙う。握り込むビールは、お互い三本目。

「30は超えたやろなあ」



 就活生は誰でも、テレビや街角で見かける有名な会社しか知らないし、誰でもその会社で成功できると信じている。だからこそエントリーシートという名の“自分のいいとこ探し”を、4枚も5枚も夜毎書き続けられる。そもそも「有名なところで営業マンか企画屋」程度の志望動機の人間に、たかがハタチそこそこで、自分のいいところなど5ページ分もあるはずがない。

 折しも時代は就職氷河期という言葉ができて5年、抜けた底のただ中にあった。必死に書いた書類を2行のメールで落とされ、筆記試験に連日駆けずり回り、面接で圧力を掛けられながら、着慣れないスーツだけが世の風に擦れて輝く。見つからない“自分のアピールポイント”とやらを、冷たい蛍光スタンドの光の下、半泣きで書き綴るほどに「何もない」一個の自分自身が、暗闇の中ひとり照らされている気持ちになる。
 自己評価をすっかり下げた彼らは、賃金・保証・条件にあらゆる妥協を重ねてようやく手にした内定を手に、過酷な社会の現場へ放り込まれるのだ。

「でも、俺はもう決めた」

 先ほどのジャグラーが一輪車を引きずりながら帰って行くのが見えた。残ったタレに一匹の蟻が泳いでいた。手足の律動は、決して苦しみもがいているように見えない。

「編集者目指すことにしたわ。バイトやけど。大学まで出させてもろて親に合わす顔ないけどな」
「そうか…まぁ、お前“紙”好きやもんな」

 Sはちょっとバカにしたようで羨ましそうな複雑な表情。飲んだせいなのか、漂ってきた彼のワキガだって意外と懐かしく匂える。

 就活に絶望した僕は、就活の合い間にシャレで受けた京阪神エルマガジン社で4回生の途中から丁稚奉公を始めたのだった。ずっと愛読書だったMeetsの「自分が面白いと思ったことを書く」スタンスは、小学生時分から書く仕事が夢だった僕にとって魅力的なものだった。5万人の応募で1人しか採らないような大手出版社に滑り続け嫌気が差していた中で、どこか腹を括った自分が居た。


「いや、何か編集って、これから大事な気がしてなぁ」


 飲み干した缶を握りつぶして、逃がしたタレの蟻。しばらく旋回を続けたあと、四肢を動かして力強く雑草生い茂る方角へ駆けだしていった。

「ピンク色…」

組んだ足をほどき立ち上がるSさんの下着を目視したふたりは力強く頷くのだった。






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 それから卒業して当時のMeets編集長に呼んでいただいた僕は、契約社員、正社員となり28で副編集長を拝命、今に至ります。
 Sは冷蔵庫の生産ラインで扉の取っ手を連日パーン、と付けていたものの、折からの家電メーカー不況で苦しんでいるよう。たまに会う一流企業の同窓生たちも、海外の支店で活躍する一線の人間もいれば、仕事を変え日々汗を流している者もいて一様に頑張っています。

 ただ、あれだけ歌が上手だった彼が、描いた漫画で笑かしてくれたヤツが、すっかり目を暗くして話すネタがローンとゴルフのスコアと株価のこと、だけではあまりにも寂しく思えて。 

 どうせ20代ちょいで自分の本分なんてわかるべくもない。あなたのかわりなどいない。それぞれの人が持つ、得意なことを分かち合ってやっていけばいいと、心から思うのです。


 受験戦争と大学生活は、知識や選択肢を確かに与えてくれたかもしれないけれど、人を感動させるエモーションや野性を奪っていきました。僕は今、それを親しい周囲のスタッフやミュージシャン、絵描き、職人、そして取材先のプレイヤーたちに補ってもらいながら、“人の心を動かす”文筆で世の役に立つべく、家族や友人に恩返しすべく道を歩んでいるのです。



all Text&Photo by K.Fujimoto

2013年1月24日木曜日

タレの蟻。(前編)










 ペイズリーだけどウエスタンシャツの破けた袖を捲ったら、坂を駆け上がる途中で連れてきたひっつき虫が2つ。


 「オナモミてどんな名前な…」


 千切り捨てながら旧イ号館のヨコを過ぎ、休講掲示板を見る癖。ラッキーストライクの匂いが取れない右手で垂れた洟をまた千切り捨てる。

 この日僕は、その敷居をくぐる機会が最も多かった共通講義棟・ロ号館、ココに卒業見込みの証明書を取りに来たのだった。

 擦れ違う見たことある人、目礼してくる言葉を交わした覚えがある人。一張羅のブラックジーンズのポケットに手をかけて、いつも通り目を伏せて屋内に突撃する。大事件の刑事より早いスピードで。



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「フジモンやん」


 円筒に板を敷いたジャグラーがメタリックな輪を4本空に投げ上げている。1台だけある不用心な野外ATMに列なすひとりがこちらに手を振った。語尾あがりの舞鶴訛りを聞けば、顔を見ずともSだ。
 缶コーヒーを買ってロ号館を出たら、今日は証明書をぴらぴらさせながらだけれど、僕が長閑な広場にぐるり配置されたベンチで一服するのも彼はよく知っている。

 我々のバンド“宇宙企画”のボーカルの割に声が通らずしかも不細工、そして水虫な彼とは、新入生自分に入った軽音ロック部で出会った。学生会館で軒を連ねる軽音スウィング部からはEGO-WRAPPIN’のメンバーが出ているように、大学で軽音は実力も人気もそこそこある部活。
 中高とギターを嗜んでいたもののカッティングに挫折した僕は、大学でベースデビューしてやろうとその門を叩いたのだった。


「オリジナル曲はダメだからね」
「ミーティング遅刻したら掃除だから」
「ちゃんと部費は前月に払いなさいよ」


 毎日同じ服を着てリーゼントの我々が、ロックの欠片すら持ち合わせていないその部活に反吐つくのはそう時間がかからなかったが、学祭のライブでパンを千切って客に投げつける、曲に合わせて剣舞するといった我ら宇宙企画の奇行の数々に、カーディガン&チノパンの周囲は、やがて我々への連絡すら恐れるようになってしまう。

 工学部のSは3回生から吹田キャンパスへ移るということもあり、アナーキーな蜜月は2年で終わったのだった。
 


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 最後の家賃を下ろしたSが赤マルに火を着ける。

 お互いなぜか成績優秀で卒業できそうな話。構内話題の非道なガリ版ジンがSの仕業だった話。
 数ヶ月開いた光陰が次の煙草を呼ぶ。Sに紹介してもらった僕の彼女が別れた後新興宗教にハマり、そのSの彼女といえば新興宗教&スキューバダイビング詐欺でもう助からんだろう、という話しに至って、先ほどのジャグラーが大きな音を立ててもんどり打つのが見えた。


 「ほいでやぁ、おう、就職はどないなってん」




開いた沈黙にSの言葉が滑り込む。確かSは天下の大手家電メーカーと聞いている。
(後編に続く)





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