2011年7月22日金曜日

バー ハートブレイクホテル閉店。

 20日が21日に変わる頃、四ツ橋筋一本東の縦筋をいっさんに駆け抜ける赤いコルナゴ。
立ち漕ぎ通しの短パン男、それは僕である。

校了を翌日に控え、目を皿にして校正を見、
花束片手の竹田さんを待たせている。

「行きましょうか」

竹田さんは僕の渡したメッセージカードに、
やっぱりシンプルな感謝の言葉を書き連ね、
花束の中に拳ごと突き入れた。



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 界隈のいわゆるオーセンティックとは違う“スタッグバー”の系譜に興味を持ち、当時“ミナミの深海魚”との異名をとっていた同僚の女史に、これもまた
「行きましょうか」
と連れて行ってもらったのが最初。

「なんかやってはる人が宇宙ですねん」とよくわからない前知識はもらっていたけれど、時流、知性、暴走、情念、それに背格好までが一般の埒外にある、これまで全く会ったことのない松田さんの人物に、
「この人を、知りたい」
そう強く思ったことを覚えている。


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 引き戸を開けたなら、知ってる顔知らん顔、立錐の余地なし。竹田さんと目を見合わせて、暖色も香りもあまりないけれど、3兄弟らしく3本ずつ草花を差し入れた花束を手渡した。


花束を渡す場面の気分って、
どうして“幸せ”で“残念”なんだろう。


そんなことを考えながら、花束を持ったまま氷をよそう松田さんお気に入りのボーダーシャツの隙間を見つめていた。

ニール・ヤングの『ヘイヘイ・マイマイ』が聞こえていた。


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 最初の訪れから程なくして、週一から週二へ、時に週三、お店に現れる老若の古参と会うことが面白くなり、会社帰りにひとりで通うようになっていた。

先述の深海魚女史に加えて、当時ミーツで共にもがいていた先輩女史もまた、しばしば訪れているようだった。

そんなある日、師匠から独立して間もない竹田さんと撮影終わりに一杯やろう、ということで連れだって開けた店の扉。

日本の美しさについて話すうち意気投合、即日企画書を書き上げた僕は、会議でプレゼンを打ち、始まったのが只今36回を迎える「J-Boys」である。


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 最後の日は、店の流れに黙って身を任せると決めていた。

知り合いが増えたタイミングで一度席を立ち、階上のバーでキツめのモルトを呷ってから戻れば、カウンターに並んだ顔、いよいよHBHの本領といったところ。

たくさんの人が、寂しさの言葉をお代と一緒に置いては、カウンター越しに力強い握手、サッと後ろを向いてアメ村の街角へ消えていった。

僕はお愛想を多少使う程度で、ただただ勢いよく角ソのグラスを上げ下げしながら、みるみる濃くなるグラデーションにたゆたう。


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 先述の深海魚女史は、それからほどなくしてミーツを辞め、水面に顔を出し、軽やかに羽ばたいていった。
J-Boys取材を通して考えを分かち合ってきた竹田さんはすっかり仕事が忙しくなり売れっ子に。
そして、変わりゆくミーツで副編として背中合わせでやってきた前々編集長の薫陶を僕とともに受けている先輩女史は、長年やってきた月刊のスケジュールから抜け、別冊部隊、いわゆるムック編集室に移動することが決まっていた。


その頃ミーツは20周年を迎えていた。


「前々編集長はじめ先達が営々と紡いできた哲学の総括と整理、そして読者の人生を少しでも変えられるような一冊を作ろう」と、このハートブレイクのカウンターでよく話し、時に喧嘩もしながら語り合っていたことを覚えている。


結果的に、「編集できてない」などと酷評されたりもしたけれど、多くの読者に読んでいただくこともでき、僕の編集人生の中では記念碑的一冊のままだ。

このバー ハートブレイクホテルは、その「ミーツの100店」の97番目、「引き継がれる街の系譜。」という企画で、1Pで記事を書かせてもらった。

今、読めば本当に青臭くて恥ずかしい。ただただ2008年末の僕そのものでしかない。でも、悔いは一縷もない。


当然、写真は竹田さん。メインカットのシャッターを切ったのは、僅か4枚。「ふじもっさん…撮れました」の声が、今でも鮮明に思い返される。



記事を転載いたします。


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先輩不在の時代に煌めく、

街のお兄ちゃんは媚びない。


 クラブの個室にひとり捨て置かれ、ママと延々プレスリーしたり、スナックでカラシボ(乾いたお絞り)ぶん回しながらバランタインを3本開けて死にたくなったり、数年前は街の諸先輩の金魚の糞として随分虎穴に入っていた。今は後輩を連れて行ったり、連れて行かれたりするようになったが、ゴキゲンにはなれるが「これは…!」がない。酒で歪んだ磁場に彷徨えない。

 228号で「ミナミ バーの系譜」を担当していた女史に「とにかくよう言わん。けど絶対行かなあきませんわ」と連れて行かれたのがこの店だった。ベース弾き、J-Boy、プロレスマニア、リーゼント、ジャックパーセル、店主の松田さんは生き別れた兄弟かと思った。「これは…!」が出た。それから訪問するたび、松田さんは作務衣の筆侍と即時的パフォーマンスについて大激論、ティアドロップの街の気配師とはオールドヤンキートーク。ひっくり返ってひとりジャーマンをキメるレディもいれば、街のウルトラ大先輩も相好を崩し、まことに「よう言わん」のだけれど、皆が松田さんの作り出す雰囲気にどっぷり浸っているのがわかる。合わない奴は来なくていい。媚びない。ただ、フィットすれば底の抜けたおもちゃ箱となる。

 この底なしの深さは、居酒屋でもカフェバーでもない、そしてオーセンティックでもない、いわゆる「バー」を作った[石の花][イブ]の叶岡さんの遺伝子を持つ店にぴたり合致する(叶岡さんも生前、この店にもよく訪れたという)。松田さん自身は第一世代といえるジミーさんの[ヨコスカマンボジェット]で働き、独立して12年目だが、[石の花][イブ]から独立した第二世代と遊んできた人でもあるので、時代を横断したそのスタンスを至極当たり前のこととして受け取っているのだろう。

 この20年、ミーツは新しい店や現象を相対化するために、街の成り立ちを知ることや、街の先輩に連れて行ってもらう体験を大事にしてきた。それはこれからも変わらない。編集部内ではついに僕ひとりとなってしまう、前編集長が作り上げてきた強固な哲学に直に触れた者として、守るべき考え方は伝えていきたい。

 最近、松田さんや街の先輩とこの系譜が刻まれたカウンターで話していると、そんなことをよく思う。

(Meets Regional 247号 P72
取材・文/藤本和剛(本誌)
写真/竹田俊吾



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 どうも、僕は朝方に涙が止まらなくなり、
まさに滂沱そのものの状態でいたたまれず帰ったよう。

朝目覚めて、未だに濡れそぼっていたシャツの袖だけが、最終盤の顛末を知っているようだった。




 先述の先輩女史は、それから交通事故で死んでしまった。

その時にお兄ちゃんがかけてくれた清志郎の『ヒッピーに捧ぐ』で、声を上げて、ぐちゃぐちゃになるまで泣いたのも、このハートブレイクホテルのカウンターだった。


思えば、客の皆が松田さんの度量に甘えていたんだろう。ただ、皆が残していく情念の塊が受け止められなくなった、もしくは変に堆積しただけなのかもしれない。それもまた、街の店の因果な本質、なのだろうか。


付き合いは一生続くだろうけど、
お兄ちゃんも、これから流転の海へ。


僕はまだこうして、ミーツに居るけれど。






松田さん、お疲れ様でした。
そして、いつもありがとう。