2016年11月29日火曜日

祖母の死と祖父。





 「晴れの国」と大書してあった駅貼りを思い出しながら、リノリウムの階段をゆったり降りてくるシルエットを見つめていた。
 5月のとある日曜日、すっかり人気のない病院は、カーテンに濾された光でも十分に明るく、その人との再会の緊張をほぐしてくれた。


 約20年ぶりに会った祖母は、膝の不調のほかは脳内の中学生時分とほぼ変わりなく、蛍光灯の元で明るみに出た肌や声も、間もなく一世紀を経るとはとても思えなかった。
 頭も記憶もとてもしっかりしている。面影もないだろう髭面の僕を見つけて交わした握手は痛いほどで、「最近は足を悪くして病院で暮らしている」という前情報に勝手に気を揉んでいた僕は、この「性急な見舞い」が「ただの再会」に変わったことで、肩肘から力が抜けていくのを感じていた。


 伴侶が出来、子を得たなら、家族で過ごす時間や自らの死には、自然と意識的になる。
 仕事にかまけている兄や、各々の部屋に引きこもっている両親を、やれ慣れないBBQだなんだと勝手にセッティングしては引っ張りだし、祖父や祖母、そして先祖のことを聞きかじって共有しようと努めてきた。今回父方の祖母が暮らす岡山を、兄一家や両親と訪れたのも僕たっての希望で、それも妻子の姿を見せたいと思ってのことだった。


 真新しい一眼レフをくりくりといじくり回して、再会の様子を撮って回る。生後半年の息子を慈しむ顔、走り回る兄夫婦の2歳の子、ぼそぼそと近況を報告する父と父の兄。

「長いこと会いに来んくてごめん。昔よう遊んでもろたん、最近よう思い出すねん。せやし、会えて本当によかった」
「あんたとはなぜかウマがおうてな。よう遊んだな。また来てな」

 最後に交わした会話のその一言一句を、病院のあの匂いとともに思い出す。帰り際に、父と祖母の2ショットを撮ろうと決めていた。「もうちょっと寄って、もうちょっと」と僕が何度言おうが距離は縮まらず、横の画角一杯に2人は収まった。
 それでも、撮影してすぐ液晶に出た親子の笑い方はあまりにもそっくりで、僕はつい吹き出したのだった。


 その写真は、息子一歳の誕生日会を開いた今月初頭に、父に渡すことができた。
 僕は父の部屋の本棚に、写真立てが並ぶ一角があるのを知っていた。物心が付く前に父(僕にとっての祖父)を亡くし、家族関係にドライに見えていた彼が、我ら息子たち一家の写真を飾っていることは、意外な感じがしながらもやっぱり嬉しく、そこに加えてもらえたら、と考えてのことだった。


 そして先週水曜日のこと。会社の異動の噂や体調不良もあり、落ち着かない日々を送っていた僕は、気合いを入れ直さないと、とデスクで週末のスケジュールを書き出していた。その時母親からのメール。

「岡山のおばあちゃんが数日中に何かあるかもしれん。心づもりしといて」

それからわずか1時間。

「亡くなった」


 書き込んだスケジュール帳を閉じて、僕は忌引きを申し出た。
 通夜と葬儀は明日明後日。ビルに反射した夕陽が土佐堀川に流れていくのを橋の欄干から見ながら、喪服の仕舞い場所を考える。そういえば、13年前の祖父逝去の折も、こうして土佐堀川を見ながら喪服のありかを思い返していたのだった。
 祖父の時はとめどなく落ちる涙でシャツが使い物にならなくなったけれど、苦しまずの大往生だったこと、そして何より5月に会えたことで、いくら川を見つめても、心の穴から悲しみは滲み出てはこなかった。
 
 家に帰って、やにわに妻子をまとめて抱きしめた。顔を見るなりいつもは大騒ぎの息子が、神妙な顔で僕の耳を引っ張った。


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それからの話。
 乳幼児は金曜日の本葬のみと決めて、僕は母・兄と一日早くお通夜に向かいました。
 巨大な葬祭場で、兄とこわごわのぞき込んだ棺の窓。
 5月に会った時と肌ツヤの良さはそのままに、死化粧を施された祖母の顔は、これまでの人生で見てきた臨終のそれとはまるで別のふくよかさで、思い立って死に時を選んだような、生死の表裏一体を強く思わせるものでした。

 本葬の折も、前日の夜伽の疲れや憔悴を父から感じることはなかったのですが、ショパンの調べとともに棺の窓が閉じられる刹那、現世のひかりが消えるその時、後ろから見る父の左右の顎が激しくうごめき、必死に噛み殺した嗚咽が小さく響いていたのを覚えています。
 

 棺を担いだ後はマイクロバスに乗り込んで、霊園や火葬場が集まる東山という地区に向かいました。驚くほど空高くに雲がたなびき、ぴんと張った空気は冬の始まりそのもので、白煙を絶え間なくくゆらす火葬場は大混雑のようでした。

 かつてのフェリーの待合室のような、赤いベンチがひたすら並ぶ部屋で納骨を待ちます。隣には、僕と同じくらいの男性がひとり、どうやら奥様とおぼしき遺影を脇に置き、物憂げに中空を見つめていました。早く帰りたそうな顔、目を腫らした顔、嬉しそうな顔。これ以上ない悲喜こもごもな空間に、僕は本葬を終えて帰阪した息子の生まれた日を思い出していました。

 離れて座っていた父の姉が、財布から古ぼけた写真を取りだしているのが見えます。もしやと駆け寄った僕は、それがずっと見てみたかった父方の祖父とわかりました。アメリカ領事館員だった彼の、おそらく仕事場と思しき重厚な建物の前で、スーツとポマードでかっちりキメた姿。「似てるね」という妻のコメントに、「ほんまかいな」と返しながら、祖父と祖母のうら若き日々を思って一滴の涙が落ちたのです。


 祖母のお骨は、淡々と収められていきました。


 今を生きる僕らにとって、ルーツはそこまで大切だとは思っていません。ただ、毎日存分に暮らしていたなら、当たり前にルーツは座右にあると思うのです。



all text by K.Fujimoto














2016年10月3日月曜日

10月4日発売『手仕事旅行』のこと。







 世の中が金メダルラッシュに沸く中、燃えるようなステアを握りながらひたすら逃げ水を追っていた夏。思い返されるのは、全エリア道中したカメラマン・竹田氏の黒Tシャツに浮かび上がった広大な塩田と、西日本の各地でこの両の手に抱いた手仕事の重みです。


 7月に『気持ちのいいバー。』を出版した返す刀で、雪崩式に西日本の手仕事の現場を取材してきました。

 まずは近場の篠山、信楽・伊賀。岡山に面舵一杯した後は、島根→鳥取と日本海の都市を線にして旅を終えました。5エリアをそれぞれ3日の強行軍となれば、食事のすべて・訪れる先もれなく取材対象とせねばならず、企画はもちろんアポから始まる段取り一式のスリリングさ・気の抜けなさに、編集部でうっかり大声をあげながら開脚前転をしたこともありました。もちろんその恨み節は、広告なし、ほぼ全ページ新取材をひとり編集のくせに掲げた自身に向けられたものです。


 果たして拾う神はありや、というところで親身に時間を割いていただいたのが、各エリアに根を張る5人の案内人たち。揃って30〜40代、手仕事の来し方行く末を日々考えながら、店の陳列やあり方を研ぎ澄まし、質の高い展覧会で魅せる。現代の家庭の生活ひいては食卓・棚までイメージしている彼らの審美眼は、手仕事のみならず衣食住すべてに行き渡っているとみて、素直に智恵と経験をお借りしたいと伝えました。

篠山は[plug]吉成佳泰さん。
信楽・伊賀は[gallery yamahon]山本忠臣さん。
岡山・倉敷は[くらしのギャラリー]仁科聡さん。
島根は[objects]佐々木創さん。
鳥取は[COCOROSTORE]田中信宏さん。

 本の完成は5人のご協力なしにはあり得なかったと、こうして見返すほどに感謝の念を新たにするものです。


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『なんで民藝に興味を持ったの?』

 畿央最古と言われる伊賀上野の洋食店で、[gallery yamahon]の山本さんは出し抜けに僕に聞きました。出会って二時間足らず、工芸ギャラリーの最前線を進む山本さんに少なからず緊張していた僕は、「長くファッションページを担当して、糸や生地から作るブランドが好きになり、染織から入った」「5年連載していた日本文化を訪ね歩くJ-Boysという企画で各地の民藝館や現場を取材したのもあって」などとしどろもどろに答えたように記憶しています。

 うっすい経験を埋めたくなって、実は年初から民藝運動の巨人たちの著作、民藝に批判的な骨董界隈の本、ここ15年の衣食住と工芸の距離間を論じた本、さまざまな文献にあたっていました。ここに告白しますが、取材前に“頭がうるさく”なりすぎてしまって落とし込みに苦しんでいた僕は、ひたすら旅路の中で思考の補助線を探していたような気がします。

 もちろん一朝一夕に見つかるものではありませんでしたが、配り手や作り手の日々を見聞きして、バー、ファッション、古典芸能であれ、高次の仕事をする人には共通することがあるのに気付きました。

 それは「ひたすら仕事をすること」。

 仕事の最終盤に大阪と京都で開催中の河井寛次郎没後50年の展覧会を観てさらにその思いは強くなったのですが、それなりに必死なれどもぬかるみの残る、また必死になるほど“仕事の楽しみ”を遠ざけてしまう自身の日々を省みることにもなりました。


 一昨日、個展のため[フクギドウ]に在店されていた石川硝子工藝舎の石川昌浩さんとお話する機会があったのですが、その雑談の中で、上記の気づきを素直に伝えてみました。

「そうです。それが我らの合い言葉ですから」。

 恥ずかしながら、今さら日常の座右にそっと置く所存です。


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 結局、なんら内容の伝わらない長文となってしまいましたが、類誌もなく、きっと必要としてくれる方がいるだろうと信じて作った本です。オトメ度やかわいらしさはあまりないかもしれませんが、手仕事のみならず飲食店や買い物、立ち寄りのスポットまで掲載した情報は選び抜いてあります。この本を片手に、あなたなりの旅のしおりを作っていただければこれに勝る喜びはありません。


 発売前日の今日は、皆様のおかげでいずれ全国各地の『手仕事旅行』が書店に並ぶ風景を少しく夢見たいと思います。

 
『西日本のうつわと食をめぐる 手仕事旅行』10月4日(火)発売。書店・コンビニエンスストアへどうぞお出かけください。





Photo by Shungo Takeda





all text by K.Fujimoto 



2016年3月24日木曜日

COPPA100閉店。







 いつも通り料理をお任せで頼んで、十字のテーブルで機嫌良くワインを空かしていた先週末。自家製の野菜やシャルキュトリー、シメは名物のパッケリで腹をさすり、「ごちそうさま」と会計に歩み寄ると、何だか妙に改まったミッキーの顔。

「フジモン、店⋯いったん閉じることにしてんやんか」

 ウソやろミッキー、んなアホな。冷静を装うけれども的確な言葉が出ない。料理の手を止めて南野さんがやってくる。

「せやねん、新しいプロジェクトに関わることになって。10年やったしひとつの区切りやわ」


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 大学を出て、この編集の仕事に就いた時を同じくして開店。10年以上の長きにわたって、公私ともにお世話になってきた東心斎橋[COPPA100]。ミーツの2005年5月号『ほんとは濃い味、好きなんです。』で、パッケリのカルボナーラを取材させてもらって以来、コンパに送別会、お客のアテンドからひとり飲みまで、いつもパブリックでカッコつけさせてくれる場所として通ってきた店だ。

 近年では『KOCHI natural MARKET』にも出店いただき、結婚パーティーのケータリングもお願いする仲で、オーナーシェフの南野さんとカウンターで街や店の話を熱っぽく語り合い酔い痴れた日々は遠いものではない。

 冒頭に書いた先週の時点では6月の予定が、「3月で閉める」と昨日メールがあり、矢も盾もたまらず帰路のホームから踵を返したのだった。


 同じ思いの知った顔がカウンターに並ぶ。重苦しい空気はなく、いつもと変わらないカウンターの風景がそこにあった。彼らによれば、次の展開は「奈良の住宅リノベーションの会社と、コッパの食の提案を加えたチームとして新事業を立ち上げる」とのことだった。メールじゃなくて電話をおくれよ、急すぎるよ、と言ってやろうかとも思っていたのだけれど、10年前から比べて皺が刻まれた顔と、思慮を重ねたであろう語り口を見ていると、SNSやホームページもやらず、最先端のグルメ文脈にも乗らずに「街の店」として営々と繰り返してきた日々が思われて、「このさっぱり去る感じが彼ららしい」と気がすっかり晴れていた。

 深夜2時。別れを惜しむ人がすっかり去って、僕はカメラを取りだしてお店の写真を撮らせてもらった。ファインダーをのぞくたび、一緒に飲んだ友人・知人の幻影が映り込んでくる、働いていた多彩なスタッフが動き回る。最後に撮ったふたりは、やっぱり見慣れた固めの笑顔。でもそれは、オーナーシェフの南野さんと相棒のミッキー、ミナミ版「相棒」の物語の、あまりにも美しいひとつの幕引きなのだった。
 

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 「10回通ってわかることを1回で体験させる店やった。師匠の店を目指して頑張ってきた10年やったなあ」そう南野さんが述懐する時枝和生さんの店[ルーリオ]も先頃店を閉められたという。そういえば、[グランカフェ]や[オンジェム]に、名古着店[RAIN]や[お好み吉田]が入っていた中正ビルもなくなってしまった。そして5月には、これも長い付き合いの鰻谷[シネマティックサルーン]が新たなステップへ進む。

 街が変化をやめないことは仕事柄よくわかっているつもりだけど、学生時分から遊んできた場所が次々と閉店し、提案力のある店と人がミナミや大阪を離れていくこのところの様子を見るにつけて、この半年感じている“転換点”との思いが強くなった。
 
 いつまでも思い出に浸って酒を飲む歳でもないし、これは彼らとの次のクールの始まりと理解しているので、一夜明けた今日はそれほどの感傷はない。でも、長く見続けてきた街が刻々と変わっていくのを正視すると感傷が湧いてくる。

 「思い出が多すぎるねんなぁ、俺は」

 先日、急逝した馴染みに献杯をしてひと息つき、ショートホープに火を付けながらこぼしたお兄ちゃんの言葉が甦る。


 いつもの送り出し、誰も「さよなら」は言わなかった。街と店、お客への愛情に満ちた店[COPPA100]。南野さんとミッキー、本当にお疲れ様でした。そしてこれからもよろしく。








all Text&Photo K.Fujimoto





2016年3月16日水曜日

祭りのあと。






 まずは先週日曜日、『THE ZEN KAI Vol.6』にお越しいただいた皆様に感謝を。
 そして主宰の森田大剛さんはじめ携わるスタッフと出演者、場所を提供いただいた清水寺さんに心より敬意を表します。

 空の碧が雲の白に縁取られ、くっきりそれは注染の布のよう。澄み切った春の日の下、恒例の花園禅塾の読経から桂しん吉さんの一席までノンストップの2時間。特別ゲストの満島ひかりさんの朗読のあと、祇園甲部芸妓・真生さんの聞き手を務めさせていただきました。


 江戸時代から“当たり前に”高いレベルの「おもてなし」を続けてきた京都の花街。日々のお稽古や挨拶回り、言葉遣いに装束。そして“一見お断り”をはじめとした、質の高い「おもてなし」のために培われてきたあらゆるマナーを通して、京都の花街が伝えてきた日本本来の「おもてなし」の心を探ろうという大ネタでした。
 
 他者といかに関係性を築いていくか。それは馴れ合いでは決してなく、時に厳しさを伴う調和の心。遊びも仕事もアホするときも、なんだって真剣な方がオモロいもんです。
 オリンピック決定以来濫用されている言葉について、何か考える補助線にはなったでしょうか。


 しかしながら真生さん。その美貌や語り口、気遣いや溢れ出る品位は、何しろ祇園甲部のトップランナーのひとりですから言うに及ばず、打ち合わせ時から内容の是非を率直に伝える姿、立ち居振る舞いからもマナーや伝統の世界にあっても自由に羽ばたかれているのがよく見てとれました。そういう方とのセッションは本当に面白いものです。

 革パンで30分の正座は想定外でしたが(笑)、打ち上げでのビールはこたえられないものでしたよ。次回は秋開催のようですのでそちらもどうぞお楽しみに。


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 「なんで緊張しないの」
 最近聞き手やパネラーを終えた僕によくいただくお声がけです。

 『リサーチや打ち合わせでの結果を飲み下して消化までする「準備」と、「これで失敗したらしゃあない」つまり「割り切り」の産物』そう答えたりしているのですが、思い返せば何度か手に汗握る経験があります。

 例えば先日の四国剣山縦走。スタート前の送迎バスにて、道悪や揺れのせいじゃなく我がのてのひらが震えていることに気付いた僕は、そびえ立つ深山幽谷が迫るにつけて、人任せの準備不足もあり「もしや身に余る経験なのではないか」と直感。実際2日目途中で敗退下山の苦い経験となったわけですが、大失恋した淀川河川敷、雪の京大合格発表だって、そういえばいつだって手が震えていた。「どうしようもない」圧倒的に厳然とした“事実”は実際にやってきます。

 でも「身に余る」と遠慮するから緊張が湧いてくる。横着せずに正面から挑めば、失敗したとてそれは「いい失敗」のはずです。







all Text&Photo K.Fujimoto