2018年7月11日水曜日

6月18日、9年目の別れ。



 6月18日の地震は、並木橋のビジネスホテルで知った。


 平日の渋谷は、痛飲明けの僕を起こすほどの喧噪で、薄い薄い雨音にホームへ入線する電車の案内が混ざって、何だかいきなり東京めいていた。既に蹴飛ばされていた掛け布団にシーツを押し遣って立ち上がると、ぐいちにボタンを留めていた寝間着から情けない乳首がもれ出る。

 デスクのコンセントから一杯に引き絞った充電器のコネクタを抜いて携帯を見ると、LINEが大変なことになっている。液晶のニュースに出た“関西で地震”の文字を目にし、総毛が、情けない乳首が、逆立った。

 大過がないのは着信がない様子で判断できたが、震源が大阪北部と聞いたら、まずは門真の実家に帰省中の妻子の安否だ。
 電話を入れると、揺れの刹那は一家仲良く朝食を摂っており、息子を抱き上げてすぐ外に出たという。ケガや被害もないに等しいとのことでひと安心、身支度をしながらテレビで状況確認にかかった。すると阿倍野の母からLINEが入る。


「セント君しんだ!!」


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 セント君だが女の子。セントだがゴールデンレトリーバー。

 その性格は温厚篤実、実家の庭で悠々寝そべる姿はまるで神獣のごとしで、石膏の型でも取れそうな浮き世離れした雰囲気を持っていた。
 「近所のブリーダーが持てあました年齢不詳の成犬をタダで引き取ってきた」という母の話にはいまだ謎が残るが、「そこらの道歩いてたから」とトイプードルを拾ってきた実績がある母のことゆえ、藤本家は何の疑問もなくその大型犬を一家に迎え入れたのだった。

 名前は、当時よく取材で出くわしていた奈良のキャラ「せんとくん」から頂いた。“せんとヘッズ”として、日々コケにされていた健気な彼を応援していたゆえの思いつきだったが、件のトイプードルに「プーちゃん」と付けてしまう母のセンスを誰も信じられなかったのだろう、名前はすんなり「セント」と決まった。
 

 家に来た当時のことは、実はよく覚えていない。兄の結婚に伴う実家の建て替えで、居場所がなくなった僕は松屋町でひとり暮らしをはじめ、月刊の副編集長として連日連夜の酒浸りだったのだ。

 金や食料が尽きる給料日前、僕は決まって真新しい実家に転がり込んだ。戸棚から勝手に酒を出し、床暖房で尻を温めながら飲み呆ける僕に寄り添うのは、窓一枚隔てたセント君だけだった。


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 押し迫るチェックアウトに、時計を見遣って母へ電話を入れた。


「最後のご奉公やったんや」


かすれた声で、母は意外な言葉を繰り返した。

 飼い主一家に似てか、代々の飼い犬たちはナイーブな小心者ばかりで、落雷や台風といった天災のたびに正気を失う。セント君も例に漏れずの性分で、生後初の震度に頭でもぶつけて憤死したかと思いきや、どうやら熱中症の後遺症とのことだった。

 なんでも週末の熱波に急な不調を見せており、週明け月曜に医者へ連れて行こうとしていた矢先。朝、様子を見に行った母が、それこそ石膏の彫刻のように冷たくなっていたセント君に声をあげ、一家全員庭に飛び出したその時、地震が来たということだった。


 「地震を事前に知らせてくれた」というのは飼い主の欲目かもしれない。そして、別れまで神獣めいた彼女の最期の表情を、僕は知らない。なんとか乗り込んだ乗車率200%の新幹線は、彼女の葬儀に間に合わなかったのだ。


 飛びついてきたところを丸抱えでだっこした時の恥ずかしげな表情。壁の穴から突き出た濡れた鼻。思い切り口角を上げてのお座りと、雑なお手。


 名古屋まで立ちながら見る車窓には、暮れるほどに白く儚くなる彼女との思い出が浮かんでは消える。

 新大阪に着くと、止まっていた御堂筋線が力強く人を運び出していた。
 右往左往していた30代だけど、僕にも子どもができ、帰るべき家ができた。何も捨てずに、何も諦めずに、家族といまだ叶わぬ夢を丸抱えにして生きていこうと誓った。


 いつもしなやかで野性の匂いを放つ、セント君を抱え上げた、あの確かさで。








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※この度の震災と豪雨被害に遭われた皆様の、一刻も早い平穏な日々の訪れを、心より祈念しております。





2017年8月30日水曜日

トンネル抜けて



“文才のある人間が一作目を書くことを努力という。文才のない人間が書くことを徒労という”



 家族で訪れた飛騨高山の帰路の車上で、僕はある雑誌で見た誰かのフレーズを鼻先でなぞっていた。

 岐阜を串刺しにする中部縦貫道は、ひたすらトンネルの連続だった。暗闇を抜けるたびに空模様が一新されるほどの長いトンネルをようやく超えたかと思えば、光と闇が次々投げつけられるような短いそれが続く区間もある。

 全線開通が今年度、という真新しい道ながら、旅帰りの心身に明滅の暴力はすさまじく、トンネル入口の扁額に添えられた「54分の00」を、僕はほとんど祈るように数えていたのだった。


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 北浜Visionsで行われた友人のオブジェ作家『Birbira』の展示会に、嬉しくも『冬の魚』という詩を寄せた今年の1月から、どういうわけか締め切りのないものを書くことができなくなった。

 今春長屋から引っ越した一軒家の2階には、生駒の山並が一望できる書斎もできたというのに、机に座っては天下一品祭りの景品の小さいラーメン鉢や、祖父がくれたヤンキースの硬球をなで回すばかり。

 春を過ぎ、蝉が鳴いても即席の締め切りのために購入した卵型のキッチンタイマーは結局一度も鳴ることなく、書くためにとった休日の2時間は次々と薄暮に消えていった。


竹箒で汗かき庭を掃除して、水を満遍なく撒く。
柳の木漏れ日が入る夕方に、ソファに沈んで水割り片手に詩集を読む。
仕事に行く時は、上町台地の坂をロードバイクで火の玉になって駆け下りる。

 書き出してみるとおどれは貴族か遊民なのか、という話だけれど、原因がわからない手前仕様もなく、新居に身体を慣らしながらテキトーに暮らしていたのである。



 そして夏になり、息子をプールで遊ばせていると突然胸の真ん中から詩情がふつふつと湧いてきた。
 ハングリー精神や反骨精神と、書くモチベーションは不可分だと思っていた自分にとっては不思議なこと。

 そのふつふつを少しずつてのひらに汲んでみると、息子誕生までの苦労や金銭面のストレス、月刊誌からの異動と仕事に対する鬱屈が、思いのほか心身に負担をかけていたことがわかってきた。

 身の回りの環境を変えることが、もっともたやすく思考の淀みを取ると聞く。

 洗い出しの駐車場に、ミラージュが立ち上っていた。僕は息子に向けていたシャワーを空に向け、ガマンの3年が終わったことを薄くかかった小さな虹に告げることにしたのだった。


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 乳児から幼児用へ買い換えた真新しいチャイルドシートに座った息子が、郡上八幡を過ぎたあたりで眠りについた。曲をニール・ヤングの『Heart of Gold』にして後部座席の妻を見ると、携帯も見ずに車窓を眺めて、西陽に頬を赤らめている。マイペースな相棒は、悩んで焦ってばかりの僕をせっつくことを一切せずに、この半年を見守ってくれていた。

 トンネルのナンバリングがゼロになったあたりで、妻が静かに口を開いた。

「とにかくひとつ、どんな短いのでもいいから書きあげてみたら。それを私に見せて」



 珍しい妻からの注文が、僕にはとても嬉しかった。




 日が落ちて滑り込んだ養老SAで、我々は車を停めて伸びをした。荒々しく打ち寄せる波のような夕暮れの空が、帰り道の方角で燃えていた。

「文才のない人間が書くことも、努力という」

車内に売店で買った天むすを放り込み、僕はいつまでもその情熱的なグラデーションを見つめていた。










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2016年11月29日火曜日

祖母の死と祖父。





 「晴れの国」と大書してあった駅貼りを思い出しながら、リノリウムの階段をゆったり降りてくるシルエットを見つめていた。
 5月のとある日曜日、すっかり人気のない病院は、カーテンに濾された光でも十分に明るく、その人との再会の緊張をほぐしてくれた。


 約20年ぶりに会った祖母は、膝の不調のほかは脳内の中学生時分とほぼ変わりなく、蛍光灯の元で明るみに出た肌や声も、間もなく一世紀を経るとはとても思えなかった。
 頭も記憶もとてもしっかりしている。面影もないだろう髭面の僕を見つけて交わした握手は痛いほどで、「最近は足を悪くして病院で暮らしている」という前情報に勝手に気を揉んでいた僕は、この「性急な見舞い」が「ただの再会」に変わったことで、肩肘から力が抜けていくのを感じていた。


 伴侶が出来、子を得たなら、家族で過ごす時間や自らの死には、自然と意識的になる。
 仕事にかまけている兄や、各々の部屋に引きこもっている両親を、やれ慣れないBBQだなんだと勝手にセッティングしては引っ張りだし、祖父や祖母、そして先祖のことを聞きかじって共有しようと努めてきた。今回父方の祖母が暮らす岡山を、兄一家や両親と訪れたのも僕たっての希望で、それも妻子の姿を見せたいと思ってのことだった。


 真新しい一眼レフをくりくりといじくり回して、再会の様子を撮って回る。生後半年の息子を慈しむ顔、走り回る兄夫婦の2歳の子、ぼそぼそと近況を報告する父と父の兄。

「長いこと会いに来んくてごめん。昔よう遊んでもろたん、最近よう思い出すねん。せやし、会えて本当によかった」
「あんたとはなぜかウマがおうてな。よう遊んだな。また来てな」

 最後に交わした会話のその一言一句を、病院のあの匂いとともに思い出す。帰り際に、父と祖母の2ショットを撮ろうと決めていた。「もうちょっと寄って、もうちょっと」と僕が何度言おうが距離は縮まらず、横の画角一杯に2人は収まった。
 それでも、撮影してすぐ液晶に出た親子の笑い方はあまりにもそっくりで、僕はつい吹き出したのだった。


 その写真は、息子一歳の誕生日会を開いた今月初頭に、父に渡すことができた。
 僕は父の部屋の本棚に、写真立てが並ぶ一角があるのを知っていた。物心が付く前に父(僕にとっての祖父)を亡くし、家族関係にドライに見えていた彼が、我ら息子たち一家の写真を飾っていることは、意外な感じがしながらもやっぱり嬉しく、そこに加えてもらえたら、と考えてのことだった。


 そして先週水曜日のこと。会社の異動の噂や体調不良もあり、落ち着かない日々を送っていた僕は、気合いを入れ直さないと、とデスクで週末のスケジュールを書き出していた。その時母親からのメール。

「岡山のおばあちゃんが数日中に何かあるかもしれん。心づもりしといて」

それからわずか1時間。

「亡くなった」


 書き込んだスケジュール帳を閉じて、僕は忌引きを申し出た。
 通夜と葬儀は明日明後日。ビルに反射した夕陽が土佐堀川に流れていくのを橋の欄干から見ながら、喪服の仕舞い場所を考える。そういえば、13年前の祖父逝去の折も、こうして土佐堀川を見ながら喪服のありかを思い返していたのだった。
 祖父の時はとめどなく落ちる涙でシャツが使い物にならなくなったけれど、苦しまずの大往生だったこと、そして何より5月に会えたことで、いくら川を見つめても、心の穴から悲しみは滲み出てはこなかった。
 
 家に帰って、やにわに妻子をまとめて抱きしめた。顔を見るなりいつもは大騒ぎの息子が、神妙な顔で僕の耳を引っ張った。


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それからの話。
 乳幼児は金曜日の本葬のみと決めて、僕は母・兄と一日早くお通夜に向かいました。
 巨大な葬祭場で、兄とこわごわのぞき込んだ棺の窓。
 5月に会った時と肌ツヤの良さはそのままに、死化粧を施された祖母の顔は、これまでの人生で見てきた臨終のそれとはまるで別のふくよかさで、思い立って死に時を選んだような、生死の表裏一体を強く思わせるものでした。

 本葬の折も、前日の夜伽の疲れや憔悴を父から感じることはなかったのですが、ショパンの調べとともに棺の窓が閉じられる刹那、現世のひかりが消えるその時、後ろから見る父の左右の顎が激しくうごめき、必死に噛み殺した嗚咽が小さく響いていたのを覚えています。
 

 棺を担いだ後はマイクロバスに乗り込んで、霊園や火葬場が集まる東山という地区に向かいました。驚くほど空高くに雲がたなびき、ぴんと張った空気は冬の始まりそのもので、白煙を絶え間なくくゆらす火葬場は大混雑のようでした。

 かつてのフェリーの待合室のような、赤いベンチがひたすら並ぶ部屋で納骨を待ちます。隣には、僕と同じくらいの男性がひとり、どうやら奥様とおぼしき遺影を脇に置き、物憂げに中空を見つめていました。早く帰りたそうな顔、目を腫らした顔、嬉しそうな顔。これ以上ない悲喜こもごもな空間に、僕は本葬を終えて帰阪した息子の生まれた日を思い出していました。

 離れて座っていた父の姉が、財布から古ぼけた写真を取りだしているのが見えます。もしやと駆け寄った僕は、それがずっと見てみたかった父方の祖父とわかりました。アメリカ領事館員だった彼の、おそらく仕事場と思しき重厚な建物の前で、スーツとポマードでかっちりキメた姿。「似てるね」という妻のコメントに、「ほんまかいな」と返しながら、祖父と祖母のうら若き日々を思って一滴の涙が落ちたのです。


 祖母のお骨は、淡々と収められていきました。


 今を生きる僕らにとって、ルーツはそこまで大切だとは思っていません。ただ、毎日存分に暮らしていたなら、当たり前にルーツは座右にあると思うのです。



all text by K.Fujimoto














2016年10月3日月曜日

10月4日発売『手仕事旅行』のこと。







 世の中が金メダルラッシュに沸く中、燃えるようなステアを握りながらひたすら逃げ水を追っていた夏。思い返されるのは、全エリア道中したカメラマン・竹田氏の黒Tシャツに浮かび上がった広大な塩田と、西日本の各地でこの両の手に抱いた手仕事の重みです。


 7月に『気持ちのいいバー。』を出版した返す刀で、雪崩式に西日本の手仕事の現場を取材してきました。

 まずは近場の篠山、信楽・伊賀。岡山に面舵一杯した後は、島根→鳥取と日本海の都市を線にして旅を終えました。5エリアをそれぞれ3日の強行軍となれば、食事のすべて・訪れる先もれなく取材対象とせねばならず、企画はもちろんアポから始まる段取り一式のスリリングさ・気の抜けなさに、編集部でうっかり大声をあげながら開脚前転をしたこともありました。もちろんその恨み節は、広告なし、ほぼ全ページ新取材をひとり編集のくせに掲げた自身に向けられたものです。


 果たして拾う神はありや、というところで親身に時間を割いていただいたのが、各エリアに根を張る5人の案内人たち。揃って30〜40代、手仕事の来し方行く末を日々考えながら、店の陳列やあり方を研ぎ澄まし、質の高い展覧会で魅せる。現代の家庭の生活ひいては食卓・棚までイメージしている彼らの審美眼は、手仕事のみならず衣食住すべてに行き渡っているとみて、素直に智恵と経験をお借りしたいと伝えました。

篠山は[plug]吉成佳泰さん。
信楽・伊賀は[gallery yamahon]山本忠臣さん。
岡山・倉敷は[くらしのギャラリー]仁科聡さん。
島根は[objects]佐々木創さん。
鳥取は[COCOROSTORE]田中信宏さん。

 本の完成は5人のご協力なしにはあり得なかったと、こうして見返すほどに感謝の念を新たにするものです。


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『なんで民藝に興味を持ったの?』

 畿央最古と言われる伊賀上野の洋食店で、[gallery yamahon]の山本さんは出し抜けに僕に聞きました。出会って二時間足らず、工芸ギャラリーの最前線を進む山本さんに少なからず緊張していた僕は、「長くファッションページを担当して、糸や生地から作るブランドが好きになり、染織から入った」「5年連載していた日本文化を訪ね歩くJ-Boysという企画で各地の民藝館や現場を取材したのもあって」などとしどろもどろに答えたように記憶しています。

 うっすい経験を埋めたくなって、実は年初から民藝運動の巨人たちの著作、民藝に批判的な骨董界隈の本、ここ15年の衣食住と工芸の距離間を論じた本、さまざまな文献にあたっていました。ここに告白しますが、取材前に“頭がうるさく”なりすぎてしまって落とし込みに苦しんでいた僕は、ひたすら旅路の中で思考の補助線を探していたような気がします。

 もちろん一朝一夕に見つかるものではありませんでしたが、配り手や作り手の日々を見聞きして、バー、ファッション、古典芸能であれ、高次の仕事をする人には共通することがあるのに気付きました。

 それは「ひたすら仕事をすること」。

 仕事の最終盤に大阪と京都で開催中の河井寛次郎没後50年の展覧会を観てさらにその思いは強くなったのですが、それなりに必死なれどもぬかるみの残る、また必死になるほど“仕事の楽しみ”を遠ざけてしまう自身の日々を省みることにもなりました。


 一昨日、個展のため[フクギドウ]に在店されていた石川硝子工藝舎の石川昌浩さんとお話する機会があったのですが、その雑談の中で、上記の気づきを素直に伝えてみました。

「そうです。それが我らの合い言葉ですから」。

 恥ずかしながら、今さら日常の座右にそっと置く所存です。


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 結局、なんら内容の伝わらない長文となってしまいましたが、類誌もなく、きっと必要としてくれる方がいるだろうと信じて作った本です。オトメ度やかわいらしさはあまりないかもしれませんが、手仕事のみならず飲食店や買い物、立ち寄りのスポットまで掲載した情報は選び抜いてあります。この本を片手に、あなたなりの旅のしおりを作っていただければこれに勝る喜びはありません。


 発売前日の今日は、皆様のおかげでいずれ全国各地の『手仕事旅行』が書店に並ぶ風景を少しく夢見たいと思います。

 
『西日本のうつわと食をめぐる 手仕事旅行』10月4日(火)発売。書店・コンビニエンスストアへどうぞお出かけください。





Photo by Shungo Takeda





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2016年3月24日木曜日

COPPA100閉店。







 いつも通り料理をお任せで頼んで、十字のテーブルで機嫌良くワインを空かしていた先週末。自家製の野菜やシャルキュトリー、シメは名物のパッケリで腹をさすり、「ごちそうさま」と会計に歩み寄ると、何だか妙に改まったミッキーの顔。

「フジモン、店⋯いったん閉じることにしてんやんか」

 ウソやろミッキー、んなアホな。冷静を装うけれども的確な言葉が出ない。料理の手を止めて南野さんがやってくる。

「せやねん、新しいプロジェクトに関わることになって。10年やったしひとつの区切りやわ」


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 大学を出て、この編集の仕事に就いた時を同じくして開店。10年以上の長きにわたって、公私ともにお世話になってきた東心斎橋[COPPA100]。ミーツの2005年5月号『ほんとは濃い味、好きなんです。』で、パッケリのカルボナーラを取材させてもらって以来、コンパに送別会、お客のアテンドからひとり飲みまで、いつもパブリックでカッコつけさせてくれる場所として通ってきた店だ。

 近年では『KOCHI natural MARKET』にも出店いただき、結婚パーティーのケータリングもお願いする仲で、オーナーシェフの南野さんとカウンターで街や店の話を熱っぽく語り合い酔い痴れた日々は遠いものではない。

 冒頭に書いた先週の時点では6月の予定が、「3月で閉める」と昨日メールがあり、矢も盾もたまらず帰路のホームから踵を返したのだった。


 同じ思いの知った顔がカウンターに並ぶ。重苦しい空気はなく、いつもと変わらないカウンターの風景がそこにあった。彼らによれば、次の展開は「奈良の住宅リノベーションの会社と、コッパの食の提案を加えたチームとして新事業を立ち上げる」とのことだった。メールじゃなくて電話をおくれよ、急すぎるよ、と言ってやろうかとも思っていたのだけれど、10年前から比べて皺が刻まれた顔と、思慮を重ねたであろう語り口を見ていると、SNSやホームページもやらず、最先端のグルメ文脈にも乗らずに「街の店」として営々と繰り返してきた日々が思われて、「このさっぱり去る感じが彼ららしい」と気がすっかり晴れていた。

 深夜2時。別れを惜しむ人がすっかり去って、僕はカメラを取りだしてお店の写真を撮らせてもらった。ファインダーをのぞくたび、一緒に飲んだ友人・知人の幻影が映り込んでくる、働いていた多彩なスタッフが動き回る。最後に撮ったふたりは、やっぱり見慣れた固めの笑顔。でもそれは、オーナーシェフの南野さんと相棒のミッキー、ミナミ版「相棒」の物語の、あまりにも美しいひとつの幕引きなのだった。
 

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 「10回通ってわかることを1回で体験させる店やった。師匠の店を目指して頑張ってきた10年やったなあ」そう南野さんが述懐する時枝和生さんの店[ルーリオ]も先頃店を閉められたという。そういえば、[グランカフェ]や[オンジェム]に、名古着店[RAIN]や[お好み吉田]が入っていた中正ビルもなくなってしまった。そして5月には、これも長い付き合いの鰻谷[シネマティックサルーン]が新たなステップへ進む。

 街が変化をやめないことは仕事柄よくわかっているつもりだけど、学生時分から遊んできた場所が次々と閉店し、提案力のある店と人がミナミや大阪を離れていくこのところの様子を見るにつけて、この半年感じている“転換点”との思いが強くなった。
 
 いつまでも思い出に浸って酒を飲む歳でもないし、これは彼らとの次のクールの始まりと理解しているので、一夜明けた今日はそれほどの感傷はない。でも、長く見続けてきた街が刻々と変わっていくのを正視すると感傷が湧いてくる。

 「思い出が多すぎるねんなぁ、俺は」

 先日、急逝した馴染みに献杯をしてひと息つき、ショートホープに火を付けながらこぼしたお兄ちゃんの言葉が甦る。


 いつもの送り出し、誰も「さよなら」は言わなかった。街と店、お客への愛情に満ちた店[COPPA100]。南野さんとミッキー、本当にお疲れ様でした。そしてこれからもよろしく。








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2016年3月16日水曜日

祭りのあと。






 まずは先週日曜日、『THE ZEN KAI Vol.6』にお越しいただいた皆様に感謝を。
 そして主宰の森田大剛さんはじめ携わるスタッフと出演者、場所を提供いただいた清水寺さんに心より敬意を表します。

 空の碧が雲の白に縁取られ、くっきりそれは注染の布のよう。澄み切った春の日の下、恒例の花園禅塾の読経から桂しん吉さんの一席までノンストップの2時間。特別ゲストの満島ひかりさんの朗読のあと、祇園甲部芸妓・真生さんの聞き手を務めさせていただきました。


 江戸時代から“当たり前に”高いレベルの「おもてなし」を続けてきた京都の花街。日々のお稽古や挨拶回り、言葉遣いに装束。そして“一見お断り”をはじめとした、質の高い「おもてなし」のために培われてきたあらゆるマナーを通して、京都の花街が伝えてきた日本本来の「おもてなし」の心を探ろうという大ネタでした。
 
 他者といかに関係性を築いていくか。それは馴れ合いでは決してなく、時に厳しさを伴う調和の心。遊びも仕事もアホするときも、なんだって真剣な方がオモロいもんです。
 オリンピック決定以来濫用されている言葉について、何か考える補助線にはなったでしょうか。


 しかしながら真生さん。その美貌や語り口、気遣いや溢れ出る品位は、何しろ祇園甲部のトップランナーのひとりですから言うに及ばず、打ち合わせ時から内容の是非を率直に伝える姿、立ち居振る舞いからもマナーや伝統の世界にあっても自由に羽ばたかれているのがよく見てとれました。そういう方とのセッションは本当に面白いものです。

 革パンで30分の正座は想定外でしたが(笑)、打ち上げでのビールはこたえられないものでしたよ。次回は秋開催のようですのでそちらもどうぞお楽しみに。


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 「なんで緊張しないの」
 最近聞き手やパネラーを終えた僕によくいただくお声がけです。

 『リサーチや打ち合わせでの結果を飲み下して消化までする「準備」と、「これで失敗したらしゃあない」つまり「割り切り」の産物』そう答えたりしているのですが、思い返せば何度か手に汗握る経験があります。

 例えば先日の四国剣山縦走。スタート前の送迎バスにて、道悪や揺れのせいじゃなく我がのてのひらが震えていることに気付いた僕は、そびえ立つ深山幽谷が迫るにつけて、人任せの準備不足もあり「もしや身に余る経験なのではないか」と直感。実際2日目途中で敗退下山の苦い経験となったわけですが、大失恋した淀川河川敷、雪の京大合格発表だって、そういえばいつだって手が震えていた。「どうしようもない」圧倒的に厳然とした“事実”は実際にやってきます。

 でも「身に余る」と遠慮するから緊張が湧いてくる。横着せずに正面から挑めば、失敗したとてそれは「いい失敗」のはずです。







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2015年9月8日火曜日

展示会『銀河』のこと。








 「そろそろ素材から作ってみたい」


 それまで手がけてきたアンティークや既製のパーツを組み合わせるアクセサリー(そちらも少数展示予定です)も、「カワイイ」というより彼女らしいシックで品のある仕上がりで、オリジナリティは獲得していたと思うのですが、僕も長らくファッション担当としていろいろ見てきた手前、やっぱり生地から作っているブランドが好きだし、なによりそこから作る気概に共鳴するタチゆえに、それを聞いたとき「いいやん」「おうやれやれ」と物心両面で応援をすることにしました。


 加工が容易で、イメージを具現化するのにちょうどよい素材だったのでしょう、そのとき彼女は“銀粘土”というものに目をつけていました。長らく絵を描くことにも親しんできたゆえに、まず紙にデザインを書き起こし、そこに粘土を盛りつけてかたちを作っていく。「動物を立体にするには骨格を知らねばならない」ということで、時に図鑑を紐解くこともあったそうです。
 
 磨き、削り、さまざまな工程を経てできた、インパラが躍動するプレートを見て、僕の口から「これは⋯」が出た。いい意味でファンタジック、でもシックで品よく仕上がったそれは、確かにオリジナルで、これまでの経験や技術の結晶そのものだったのです(大げさですけど)。


 そして、やがて彼女は十二星座の制作に着手します。左耳にはその星座を表象するモチーフを。右には星のかたち、一番星に煌めくジルコニアを配して。縁あって手ほどきをしてくれるようになった<Studio SOIL>の工房で、約1年半かけて、十二星座が完成しました。


 思えば古来より、我々は方角や季節を天文から知り、動物や身近なものに見立て、さらにはロマンティックな物語を与えてきたように、星座に絶えざる信愛を示してきました。

 そして星座は誰もに必ずひとつあります。

 夜空を見上げることもなかなか叶わないこの頃ですが、大切なひとへのプレゼントに、自分へのごほうびに、ぜひ一度ご覧いただければと思っております。

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d.p. 展覧会 『銀河』
2015.9.11Fri.)〜13Sun.
12:0019:00(作家は連日在廊予定)
Mole Gallery
大阪市中央区伏見町3-3-3 芝川ビルB1

Opening Party 
911日(金)18:0022:00 MoleHosoi Coffees

初日の夜に、お隣[MoleHosoi Coffees]でささやかなパーティーを開催いたします。心ばかりのおもてなしをご用意してお待ちしております。

HPdouxpavane.web.fc2.com






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 初日のパーティーでは、[Mole&Hosoi Coffees]さんに全面協力を得て、スペシャルバーテンダーとして元[バー ハートブレイクホテル]の松田圭則さんの協力を仰ぎ、星にまつわるお酒やフードを用意しております。東心斎橋のイタリア食堂[COPPA100]と、パティシエールの芦田真理子さんによる十二星座マカロンも! 


 ささやかな展示会ではありますが、いい時間を過ごしていただけるよう頑張ってみようと思います。我々夫婦も連日揃って在廊しておりますので、近くにお立ち寄りの際はぜひ、顔を見にいらしてください。








Photo by Yuko Kadokawa
Hair&Make-up by Eri Kaneda
Model by Chigusa Kambayashi(LVDB BOOKS)
Text by Kazutaka Fujimoto